演歌・歌謡曲の“若きエース”として注目を集める新浜レオンさん。
爽やかなルックスと力強くも心地よい歌声で、昭和歌謡の魅力を令和の時代に伝える存在として、多くの支持を集めています。
そんな彼に関してよく話題になるのが、「誰の弟子?」「師匠はいるの?」という疑問。
父は歌謡曲歌手の高城靖雄さん、最近では木梨憲武さんとのコラボも話題ですが、実は新浜レオンさんには、“演歌・歌謡界”で言うような“師匠”は存在しません。
この記事では、父との関係や木梨憲武さんとの出会いを交えながら、新浜レオンさんがどのようにして“自力で”歌謡界に飛び込んだのか、その軌跡を調査しました!
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新浜レオンの師匠はいない!自力で道を切り開いた歌謡曲の歌手

新浜レオンさんには、特定の歌手に弟子入りして技術を学ぶといった「師弟関係」は存在しません。
つまり、「○○一門」「○○門下生」といった所属もなく、師匠不在でデビューした珍しいタイプの歌謡曲歌手です。
歌手を志したきっかけから、デビューまでの道のりを紹介します。
きっかけは学生時代の成功体験
新浜レオンさんが歌手を目指すきっかけとなったのは、大学時代に経験した“ある成功体験”でした。
大東文化大学3年生のとき、「ミスター大東コンテスト2017」に出場し、大学生ばかりの観客の中、森田公一とトップギャランの『青春時代』を歌いました。
会場を握手しながら練り歩くという“昭和スタイル”のパフォーマンスで見事グランプリを獲得。
大東文化大学3年生の時、「ミスター大東コンテスト2017」で森田公一とトップギャランさんの「青春時代」を歌唱、会場を握手をしながら練り歩き、見事グランプリを獲得。その際の学生の反応を見て、「将来は歌手になって、若い世代に向けても歌謡曲の素晴らしさを伝えていきたい」と明確に意識するようになる。
出典:新浜レオン公式プロフィール
その際、同世代の学生たちが昭和歌謡を楽しみ、盛り上がる姿を見て、「若者にこそ、この音楽の良さを伝えたい」と強く意識するようになったのです。
歌手になるため本格始動
コンテストの経験を機に、新浜レオンさんは本格的に歌手を志すようになります。
その機会が訪れたのは、大学4年生のとき。
自身で制作したデモテープを複数の音楽レーベルに持ち込み、Being(現B ZONE)に出会います。
大学に通う一方で、父親の運転手やバックコーラスを務め、デビューのために、デモ・テープをレコードメーカーやプロダクションに送るなど、歌手になるための活動は自主的に取り組んだ。
そして母親との約束の期限が目前に迫った大学4年の6月。最後の最後というところでデモ・テープをきっかけにデビューのチャンスをもらったのが、現在所属するBeing(現・B ZONE)だった。
出典:ORICON NEWS
そして、母親との約束の「大学卒業までに進路を決める」というタイムリミットが迫る中、大学4年の6月にチャンスが訪れました。
Beingが新浜レオンさんの熱意に応え、デビューのテストへと進むことになったのです。
“見た目ギャップ”と25kg減量の決意
ただ、ここで思わぬハードルが立ちはだかります。
新浜レオンさんは高校まで野球部でキャッチャーを務めていたため、がっちり体型・日焼け肌・短髪という“体育会系”のビジュアル。
初対面の面接時、スタッフには「イメージと違うかも…」という空気が流れたといいます。
そうしたら日焼けしてるし、体形もちょっとガッチリしすぎだから痩せたほうがいいんじゃない、髪も短いんじゃないって言われて、ふたを開けたら真逆じゃないか!って(笑)。
出典:TV LIFE
それでも「本気でプロになりたい」という思いを貫き、わずか2週間で10kgの減量に挑戦。
テスト撮影までに見事に体型を絞り上げ、最終的にはデビューまでに計25kgの減量を成功させました。
演歌・歌謡・ポップスを融合させたデモ音源に加え、見た目の努力も評価され、持ち前の熱意とストイックさでチャンスをつかみました。
令和元年、海峡レコードからのデビュー
こうして、令和元年5月1日という“新時代の初日”に、新レーベル「海峡レコード」からシングル『離さない 離さない』でデビューを果たしました。
まさに、師匠の力に頼ることなく、熱意と努力でつかんだデビューだったのです。
母親の反対や、体型への指摘という壁を前にしても、「とにかく自分の歌を届けたい」というまっすぐな思いが、新浜レオンさん自身の行動を突き動かし、そして周囲の心を動かしていったのです。

どこまでも真っ直ぐで一生懸命な姿に、思わず応援したくなっちゃいますよね。
父・高城靖雄との関係は?師匠ではなく“背中を追う存在”


新浜レオンさんにとって、父・高城靖雄さんは師匠ではなく、“歌手としての原点”であり最大の憧れです。
『伯方の塩』のCMソングでも知られる歌謡曲歌手・高城靖雄さん。
物心ついた頃から家の中では演歌や歌謡曲が流れ、車でも常に父親の歌がかかっている――
そんな環境で育った新浜レオンさんにとって、“歌”は生活の一部であり、父親の存在はまさに原点でした。
新浜の父親は『伯方の塩』のCMで知られる高城靖雄。自分のこれからの生き方を考える中で、「歌一筋で育ててくれた父の仕事はどういうものなのか」と興味を覚え、高3の夏休みには坊主頭のまま、父親のカバン持ちを始めたという。
出典:ORICON NEWS
高校で野球部を引退した後は、父親の付き人として現場に同行したり、バックコーラスや運転手など裏方の仕事を経験。
その中で、プロの世界の厳しさや楽しさを肌で感じていきます。
しかし、新浜レオンさんはあくまで“自分の力で歌手になりたい”という思いを持ち続けており、父親に「弟子入り」するような形はとっていません。
父親は自分の原点ですし、大きな背中ではありますけど、いつか絶対に自分の力で越してやるんだという意気込みの表れです。
出典:Real Sound
むしろ、「父をいつか超えたい」という強い思いの中で、自らの道を模索していったのです。
歌について父親から褒められたことは一度もないそうで、その厳しさがまた、プロとしての姿勢を教えてくれたのかもしれません。
父はいいところだけを見せてくれていたということに気づいて。そんな父を、歌い手としてはもちろんなんですけど、あらためて人としてものすごく尊敬したんです。
出典:TV LIFE
こう語るように、父・高城靖雄さんは「師匠」ではないけれど、どこまでいっても超えるべき背中であり、新浜レオンさんの“歌のルーツ”と呼べる存在なのです。



歌手としても人としても、やっぱりお父さんは新浜レオンさんの原点なんですね。師弟関係を超えた深いつながりですね!
木梨憲武との関係は?紅白出場を支えたプロデューサーの存在


木梨憲武さんと新浜レオンさんは、プロデューサーと歌手という関係です。
2023年にリリースされた新浜さんの6thシングル『全てあげよう』は、プロデューサーに木梨憲武さん、作詞作曲に所ジョージさんという豪華な布陣で話題となりました。
この強力タッグが生まれた背景には、西城秀樹さんへの共通のリスペクトがありました。
新浜レオンさんは、幼い頃から西城秀樹さんのライブ映像を繰り返し観るほどの大ファン。
特に、“誰もが一体になって楽しめるステージ”に強く憧れていたといいます。
そんな中、木梨憲武さんも西城秀樹さんの熱烈なファンであることから、2人の共通の感性がリンク。
新浜レオンさんが木梨憲武さんのラジオ番組にゲスト出演した際、西城秀樹さんや歌謡曲への思いを語ったことで意気投合。
ちょうどその場に居合わせていた所ジョージさんとの会話の流れで、「じゃあ曲を作ろう!」という展開になったのです。
そしてなんと、そのわずか2日後には『全てあげよう』の音源が完成していたというスピード感。
この作品がきっかけとなり、念願のNHK紅白歌合戦への初出場を果たすことになります。
木梨憲武さんとの関係は、師弟というよりも、夢を導いてくれた先輩のような存在。
新浜レオンさんにとって、世代やジャンルを超えて背中を押してくれた“頼れる表現者”のひとりです。



木梨憲武さんとの、この偶然のような必然のようなご縁が、夢の実現へとつながったのですね!
まとめ
新浜レオンさんには、形式的な「師弟関係」はありません。
特定の歌手に弟子入りしたわけでもなく、「○○門下生」といった枠組みに属しているわけでもないのです。
それでも新浜レオンさんの歩みを辿ると、支えとなった人々や、夢を後押ししてくれた出会いがありました。
- 特定の師匠に弟子入りすることなく、自らレコード会社にデモを送りデビュー
- 父・高城靖雄は“師匠”というより“人生の原点”であり、尊敬すべき背中
- 木梨憲武さんは、楽曲のプロデューサーであり、紅白という夢の舞台へ導いてくれた存在
- その出会いのきっかけは、共に西城秀樹さんを敬愛していたことだった
- 所ジョージさんとの楽曲制作も、出会いの中で自然に生まれたご縁だった
自らの想いを信じて行動し、出会いをチャンスにつなげていくその姿勢は、まさに“自力で道を切り開いてきた”証。
そして何よりも印象的なのは、どのエピソードにも「誰かのために歌を届けたい」という想いが根底にあることです。
これからも、新浜レオンさんが届ける“まっすぐな歌声”に、たくさんの人が勇気をもらえることを願っています!
それでは、ありがとうございました!
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